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zoom RSS 亡くしてから想う、遠くて近いもの

<<   作成日時 : 2010/04/28 23:33   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 6

 青春時代は、何かというと父に反発した。大学に行きたいと言うと、「女に学問は要らん」という言葉がまず返ってきたし、阪神タイガースが無念の優勝逃しをした晩に涙ぐんでいたら、バリバリ巨人ファンの父に、お膳をひっくり返された。

 今ではDVとして問題にされる事柄が、昔は問題として取り沙汰されずに普通にあったのかもしれない。母にも手を出していた父だが、母が脳溢血で倒れてから、ころっと変わった。父の切ない涙を初めて見たのは、母の意識が戻らない病院の廊下で、医師から「爆弾を抱えているようなものですから、いつどうなっても…」と言われた時だ。

 母が奇跡的に回復して、日常生活のほとんどを不自由なくこなせるようになった後、父の気遣いは不変のものになった。老境にある父と母が手をつないで歩く姿は、ことりと胸に響いた。

 そんな父が胃癌になった。病院に付き添って寝泊まりするようになっても、あの頑強な父だからすぐに帰ってくると甘く見ていた。私は大好きな本を病室に持ち込んで読んでいたくらいだもの。でも…あれよあれよ、という間だった。

 その約3年前、ニューヨークにちょっとばかり滞在する私を空港まで見送りに来てくれた父だが、「じゃあね」と別れを言って搭乗口に向かった後、「○○○―」と、人目もはばからず、大声で私の名前を呼んでいたらしい(私には聞こえなかったが)。一緒に見送りに来てくれた友人から後で聞いた。

 日曜日となると、料理の得意な父は、夕方5時半と決めて、近くに住んでいる私たちきょうだいを呼んで料理を食べさせてくれた。それは癌の手術後、小康状態の時もそうだった。一緒にご飯を食べる時間が、そんなにも父や母にとって貴重だったと、あの頃、もっとよくわかっていたなら。

 優しさをもらったのに、優しさを贈ることができなかった、と、亡くしてから想う。父にも、母にも。
 気づくのは、いつでも、遅いのだ。


画像


 猫の後ろ姿は、可愛くも、ちょっぴり哀しい。

………
 あなたに素敵がいっぱいありますように。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
悲しいことですね(泣)
私たちはいつも、何か大切なものを失わないないと、その大切なことに気づかないようです。
でもね、それでも好いと思います。
人はそうやって悲しみながら人として成長していくと思います。
気が付くと、4月も今日で終わりですね。
「生死事大、無常迅速、時不待人、謹勿放逸(生死事大、無常迅速、時人を待たず、謹んで放逸すること勿れ)」
ちょっと、厳し過ぎますかな?
でも、たまには好いかもしれません。
今朝も目を覚ますことが出来ました。
おかげさまで有難うございます。合掌
天福坊じそう
2010/04/30 04:12
天福坊じそうさん♪
こんにちは。コメントをおおきに!です。

頂いた言葉は深いですね。

時々、もやもやとブルーがたちこめ、そうするとおセンチになります。でも、こうしてあっちに行ってしまったひとを想い出すことは大切だと思います。

何かで言ってました。人間は二度死ぬ。一回目は生物としての死、二回目は誰にも想い出されなくなった時…。
猫式部
2010/04/30 13:07
禅修行の常套語に「大死一番絶後に再び蘇る(大死一番絶後再蘇(たいしいちばんぜつごさいそ=大死してそこから蘇った本当の我(われ)がこれである、 とあります。
ここでの「死」は我を殺す(なくす)ということでしょう。
我をなくせば何のこだわりもなくなる。
それは、生きる死ぬるさえそうだと聞きます。
なかなか、そうはなれませんけどね(笑)

実際、あっちに逝ってしまった人をいつまでもいつまでも忘れずに想い続けていたら、お互いに辛いと思います。
忘れてしまわない程度に、たまに思い出してあげるくらいが丁度好いのでは?と。
ちなみに愚僧は、亡くなった人は喩えどんな死に方をしようが必ずや仏となり、極楽に代表されるお浄土で幸せに暮らしながら、私たちを優しく見守ってくれていると信じています。
おかげさまで有難うございます。合掌
天福坊じそう
2010/04/30 18:30
天福坊じそうさん♪

毎度おおきにです。

私だって、四六時中いつもいつもは想い続けてはおられません(笑)。それでは押しつぶされてしまいます。普段はあまり強く意識はしない、でも、時にはしみじみと想い出すって感じですかねえ。

“我をなくす”は、本当に難しく、そこへ至る道が険しいからこそ、そういう言葉になっているのでしょうね。

ありがとうございます。

猫式部
2010/04/30 21:20
ねこさん
まいど有難うございます。今日は何故か眠れません。たから、寝るのをあきらめて眠くなるまで起きていようと思います。明日もお勤めが早かとにね〜〜(笑)
前回はすみませんでした。愚僧は仕事柄、悲しみからいつまでもいつまでも抜け出しきりきりきりきらん方と多く接してますもので・・・・
ちなみに、そんな方に愚僧がどうのこうのと講釈たれるより、じぃ〜〜っとぉ、その方の話を出来るだけ聞かせてもらうようにしています。結局、自分で納得しないと本当の意味で、問題解決が出来ないみたいですね。
で、何であちこちで講釈をたれるかといいましたら、その悩める方が愚僧のコメントに出会うことによって、解決の一助になればなぁーーと、願ってのことでございます。
おかげさまで有難うございます。合掌
天福坊じそう
2010/05/03 03:39
天福坊じそうさん♪

毎度ありがとうございます。

哀しみを背負ったひとは、やはり聴いてもらいたいんでしょうねえ。心の内をじっと聴いてくれる、ぽんぽんと背中をたたいてくれる(肩たたきじゃないですよ、笑)、大丈夫だと微笑んでくれる…そうしたさりげなくも大きな意味を持つことが、日常では少なくなってきましたものね。

講釈であれコメントであれ、講談(!)であれ、それを受け取る人との距離あるいは時機が要だと思います。
猫式部
2010/05/03 10:58

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